Ossy Renardy (オシー・レナルディ)
Ossy Renardy (オシー・レナルディ)。オーストリアの男性ヴァイオリニスト。1920年4月26日生まれ。1953年12月3日没。
ウィーンでウェイターをしていた音楽家ではない両親のもとにオスカー・ライスとして生まれた。11歳で初めて人前に姿を見せ、1933年10月27日からイタリアのメラノで1シーズン、巡回バラエティ団に参加した。オスカー・ライスほどゲルマン語っぽくなく、イタリア語っぽい名前が望ましいということで、マネージャーが「オシー・レナルディィ」を提案した。メラーノのカジノでシューベルトのイ長調ソナタとパガニーニのヴァイオリン協奏曲を演奏したことがきっかけでイタリアへの長期ツアーに参加することになった。1934年5月にウィーン・コンツェルトハウスで演奏した後、イタリアに戻り、ミラノでヴィクトール・デ・サバータの指揮で演奏し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれた。その後、バルト諸国、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、オランダ、オーストリア、フランス、そして再びイタリアを初めて回った。1937年、ナチスの弾圧を逃れるためにレナルディはイギリスに渡り、同年アメリカにも訪問し、1938年1月8日のタウン・ホールでニューヨーク・デビューを果たした。1939年10月10日のカーネギーホールでのデビューでは、前半にラロのエスパニョール交響曲、ナルディーニの協奏曲ホ短調、ドヴォルザークのソナチネ・ト短調、パガニーニのカプリース24曲をすべて演奏した。翌1940年にはカプリース全曲の世界初録音(ただし、フェルディナンド・ダヴィッドのヴァイオリンとピアノのための編曲で、ピアノパートはヴァルター・ロベールが演奏。1941年にはすでにアメリカ合衆国陸軍で演奏しており、翌年にはアメリカ合衆国陸軍に入隊し、1943年にはアメリカ国籍を取得。戦争中、アメリカ軍の娯楽のために490のアメリカ合衆国陸軍コンサートに出演した。第2次大戦後は新たな舞台への準備としてニューヨークの著名な教育者、テオドア&アリス・パシュクスに師事して研鑽を積んだ。1953年12月3日、交通事故で亡くなった。1948年6月27日にチャールズ・ムンク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団とのブラームスのヴァイオリン協奏曲が唯一のオーケストラとの協奏曲録音となっている
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